チームと協働 その②。
言葉の定義の話になるのだが、「同じような考え」とは、つまり相互理解・共通理解ではないだろうか。そして、「同じような感覚」というのは共感だ。そして、頭だけで理解したことと、全身の感覚器官で感じ取っていることは、違うものだ。
上司がやり方を説明して、部下が「はい理解しました」となる状態は、同じ考え方になった状態でもある。
対して、親方が弟子に説明していないのに阿吽の呼吸で共同作業できるのは、同じ感じ方をしている状態であろう。弟子は親方を観て、親方のやっていることを見様見真似で実践してみて、最初は親方と同じようにはできないが、試行錯誤を繰り返し、失敗もして、でもどんどん親方と同じようなことができるようになってゆく。そうやって全身に浸み込んだ感覚・身体知によって、たとえ言葉で説明しなくても親方と弟子は同じような状態をつくることができるようになる。そしてとある日の夜の飲み会で、「あー、あの感覚なんだよ、そうだろ? 」 「はい、あの感覚ですよね、すごくわかるようになりました! 」 のような会話で盛り上がる。これは共感だろう。
この時、弟子は親方に共感できているだろうし、親方も弟子に共感できているだろう。しかし、互いに共感できているからという状態だけで協働するのは簡単ではない。その状態だけでは、親方が持っている暗黙知と、弟子が持っている暗黙知が似たようなものであるというだけでしかない。その状態から、親方と弟子が、たとえば「あの作業のあの瞬間のあの感覚は、ぐぐーっときて、ぎゅっとするんだよな」、「そうです、あの瞬間のぐぐーっとくるんですよね、そこでぎゅっとやると上手くいくんですよ」、「そうそう、そこなんだよな、そこ」、「はい、そーですね! 」のような、コミュニケーションをすることによって、双方の暗黙知が形式知として、暗黙知である個人知が、組織知として使える形式知に変化し、その知の成長があるからこそ協働のレベルが高まるのではないだろうか。
言い換えると、文字情報など共通言語で理解し合うことで相互理解が進むが、共感はその共通言語でのコミュニケーションとは別の、体験から得た身体知という学びが存在していることが重要ではないだろうか。
同じ体験をしていたのであれば、共感は起こりやすい。しかし、同じ体験をしていない人同士が共感に至るには、似たような体験から得た似たような身体知という学びを、言語を含めたコミュニケーションですり合わせをしながら、互いに類推して合わせこんでゆくという行為が重要と考える。
立場も違うし同じ体験もしたことはないが、それぞれの身体知を互いに言語情報として表出させ、同じところや違いを互いに認識を深めてゆくことで、違う体験でも通じる部分を探し出し、その探し出した部分につながっているそれぞれの身体知によって共感する。
近年はVU C A の時代。過去の安定した時代とは違う、と言われるが、過去の時代も、V UC Aはあったはずだ。ただ、その範囲は限定的で、緩やかで、今ほど多様ではない。しかし、意志をもった人の集団は常に複雑系であり、単純な因果では解決できないものばかりだ。そして世界そのものが複雑系だ。その複雑系の当事者である人・チーム・組織・集団は、前に進むために「成し遂げるもの」という目的や目標を掲げ、一人ではできない大きなものであれば協働する。
その構図は過去から現在、そして未来にも変わらないのだろう。しかし、近年は協働が低下してきていると感じる。協働が低下しているのか、協働の質が変化しているのか、いずれにせよ、協働という行為によって生み出されるだろうチカラが弱くなっていると感じる。それは、筆者が企業変革パートナーとして多くの企業の変革に伴走してきたからこそ感じ取れているものだと思う。
では、なにが変わったのか?共感の元ネタは、そのほとんどは自分自身の経験であると考えられる。それは、知識として情報を入れ込むだけではなく、全身の感覚器官が得る「感じたもの」と、頭で整理した「情報」が紐づいたものだ。「あんな感じ、こんな感じ」と紐づいた記憶が、経験したと表現できる情報ということであり、それは身体知として認識できているものだろう。過去の、たとえば高度経済成長時代は、今ほどの多様な世界ではなく、今ほどの自由が認められている時代でもなく、似たような価値観の中で、似たような経験をすることが多かった。たとえ別々の企業でも、企業の中では上司の命令で上司の考えに沿った行動をとることが多かった。そして、そのような時代がある程度長く続いた。その結果、部下は上司と同じような経験をつむことになる。
また、同じ部署の上司と部下が飲み会で意気投合するようなコミュニケーションの場も多かったし、家族で参加する運動会のように共通体験や協働体験する場も多かった。家庭に帰っても、休日はみな同じようなテーマパークに行き、なんでもそろっている総合デパートで買い物をする。国民のほとんどが、同じような場所、同じようなモノ、同じような時間の過ごし方。その結果、自分と他者は、たとえ住んでいる地域が違っても、出身地が違っても、別々の企業から転職してきていても、職種が違っていても、目の前に居る他人同士でも既に似たような経験が何かしらあるので理解や共感がつくりやすいという前提があったのではないだろうか。そして、自分と目の前に居る他者が、同じチームで前に進む際に、その前提はプラスに働く。つまり、共感のための元ネタである同じような体験を自分も他者も保有していたからだ。
しかし近年は多様性が増し、上司の命令通りに動くこと自体がタブー視されている雰囲気もあり、自分らしく生きることが重要視され、多様な生き方が推奨され実際に多様化した。海外の多くの人との交流ができるため日本独自の文化ではない文化に触れ育つことも多くなった。そうすると、自分の経験したことと、目の前に居る他者が経験してきたことが、同じような部分がほとんどないことも多くある。
さらに、I T 技術の進歩により、自分自身の身体を投入せずに、文字情報や画像情報、映像情報のみで、バーチャル空間でコミュニケーションすることが非常に多くなった。その結果、感覚機能に紐づいた経験から得られる身体知が弱くなり、多様性によって共通部分が少なくなり、結果として共感が薄くなっている。そう捉えることができないだろうか。
それは、過去の「共感が得られやすい人々が居るという前提、つまり似たような身体知を持っている人が多い時代」ではなく、「共感が得られ難くなっている人々が多いという前提、つまり似たような身体知を持っている人が少ない時代」になっているにも関わらず、過去と同じようなやり方で協働を促しているため、結果として協働が機能しない、それが近年の構造だと筆者は考えている。そのような事象を感じ取ったかどうか、徐々に企業は、花見や運動会などの社内イベントを復活させたり、借り上げの社宅で社員同士が関わりやすいの居住地区をつくったり、なんでも言い合える座談会などを実施したりしている。それは、チームで協働する上でプラスに働く。企業が開催したイベントに参加することは共通体験にもなるし、相互理解が進むことで共感の元ネタである経験を掘り起こして隠れていた共感を表に出すことができる。
しかし、「さらに高いレベルの協働をする」には、別の工夫が必要だ。それは、筆者が、その「さらに高い協働をつくる」ための支援をするプロフェッショナルチームのメンバーとして多くの経験と高いスキルを得たからこそ見えたものだと考えている。相互理解して協働しているチームと、相互理解だけではなく共感ある協働のチームでは、協働のレベルは共感あるチームが高いのだ。
そして、共感は信頼につながる。同じ知識を持っているだけよりも、同じような感覚で協働することで、相互にフィットする感覚値が生まれ、それが信頼につながると考えている。互いに知らない二人を対峙させて、「はい、信頼してください」と命令しても、信頼関係ができるものではない。相手を頼ってもよいとの感覚がなければ信頼ではない。相手を頼ってもよいと頭だけで判断した状態よりも、もっと深い信頼関係というのは身体知が紐づいたものだと考える。
そして、信頼とは、実際の相手の行動から得た身体知を含めた情報を基にして判断し感じられるものではないのだろうか。相手が誠実に行動している。それを、誰かから聞かされた情報だけではなく、身体知として得られている。だから、相手を信頼できる。
そしてそれはまた、本気でチャレンジし合うということと、それを本気でサポートし合うということからもつくられるものかもしれない。本気でチャレンジをする、それを本気サポートをする、同じ場で互いに、一つの成し遂げるものがある中での体験がある、そしてそこからの身体知がある。本気でチャレンジしている姿があり、だから本気でサポートする。そのような関係でミッションに対峙するからこそ強く共感できるし強く信頼できる。