協働と共鳴とサイエンスとアート その②
このような「共感」には、もしかするとまだ解明されていない「何か」の伝播があるのかもしれない。
たとえば、魚釣りをする人は恐らく感じている事象、魚が居るのに釣れないという「スレている状態」を。同じポイントで魚を釣っていると、魚が居るにも関わらず釣れなくなる現象だ。釣り人は自身の経験から感覚的にその事象を知っているが、科学的には根拠があるらしい。危機に直面した魚、たとえば餌を食べようとして釣り人の針に掛かった魚は、その針から逃れようと必死に抵抗する。その際に魚は自身の体から化学物質を周囲へ出す。その科学物質を周囲の魚が感知して、周囲の魚も危機を察知し、食べる行動を避けて慌てふためいて逃げる行動を優先させる、らしい。
また、網で大量にとった魚はストレス物質を体内に多く残したまま食用となるが、水槽で活きている状態をサッっと取り出し直ぐに活き〆した魚は、ストレス物質が出る間も無く皿に盛られて頂くことになるので味が良い、そう言えるのではないだろうか。
植物も同様に、葉を虫に食べられている植物は、自身が食べられることを抑制するために自身の体内に化学物質を拡散する。その化学物質は虫が嫌がる不味い毒のようなものであり、その毒が虫の食べる行為を遠ざける。そして同時に、空気中にも化学物質を拡散させ、その空気中の化学物質をキャッチした別の場所の同じ種類の植物は、食べられている植物と同様に毒を体内に出し、虫に食べられにくい状態になる、らしい。
日本の美容系企業の研究によると、人間にも他者に伝達する化学物質の発散、たとえばストレスを感じているときに出す臭い物質、若い女性だけが出す香り物質など、があるらしい。
そのような生き物の野性に関わる部分は、まだまだサイエンスではすべて解明できていなし、言語情報などのロジックとして一般化されていないが、筆者は企業変革の多くの場で感じ取ってきた。そして、この野球チームへの支援での事象は、とても新しい発見だった。
論理的に整理された文字情報のような形式知、つまり一般的な社会においての文字情報という共通言語に置き換えることなく共感がつくられるような世界を知らなかった当時の筆者は、暗黙知を論理的に整理された文字情報という形式知に変換してから共通理解をつくるという流れを重要視していたのだが、その考えを改めるきっかけとなったのがこの事象だった。
恐らく、ある特定の世界観の中での似たような身体知を持っていれば、論理的に整理された文字情報に変換しなくても相互に近づくことができるのだろう。繰り返し親方の真似をして身体知を磨いた弟子と、その真似の対象となった親方のように。ブルース・リーの有名な言葉「Don’t think, feel」も、まさに人間が持つまだロジックとして表現できていない素晴らしい能力の存在を彼が知っていて、それは言葉での説明ではなく感じとることでしか伝えられないと判断していた中から生まれたのではないだろうか。そしてそれは、もしかすると、アナログ情報とデジタル情報の違いのようなものなのを含んでいるのかもしれない。
アナログ情報のレコードやカセットテープ( 昭和世代は知っているはず) から、デジタル情報のCD や音楽ファイルにほとんどが置き換わっているのが近年の一般的な人が楽しむ音楽情報だ。筆者は、音楽を録音したカセットテープやレコード・CD から、その便利さにほれ込んで「MD :Mini Disc」を使い始めたころ、MD に記録されている音楽に物足りなさを感じた。CD はアナログ音源をデジタル音源にしたものだが、圧縮率は低い。しかし、MD はアナログ音源をデジタル変換して、相当な圧縮をした形式の音楽ファイルとなるのだが、開発者が「人間の耳に聞こえない音を省いているだけなので音質劣化はない」( というような記事を観た) ため、筆者は「これまで聞いていたデジタル情報のCD と変わらないだろう」と安心してMD を使い始めたのだが、実際にMD の音源には物足りなさを感じた。
そこから筆者は、人間が認知できている情報と、認知できていないが受け取っている情報は、違うのだと考えた。つまり、外部から人間に到達してくる情報が1 0 0 0 あるとすると、人間の感覚機能では1 0 0 の情報しか受け取れず、そこから認知できるものは3 0 程度に少なくなる。感覚機能が受け取った1 0 0 のうち7 0 は認知していないが受け取っている情報、そう考えた。そして、改めてアナログレコードと、同じアルバムのCD を聴き比べてみたのだ。そうすると、やはり、CD 音源には「何か」物足りなさを感じた。CD の音源はraw データとして、非圧縮のデータとして扱われているが、そもそもアナログ情報は曲線であるが、デジタル情報はその曲線に似せた階段である。大きく圧縮すると粗い階段になるので、アナログ情報から遠ざかる。それがMD の音源だ。そしてCDの音源は細かい階段なのでアナログ情報に近いが、階段は階段であり、連続した曲線ではない。
サブリミナルコントロールも似たような仕組みだろう。視覚情報として認知・理解はできていないが、脳には刻み込まれる情報を利用したコントロールだ。そしてさらに、人間が感覚機能を備え、そこでキャッチした様々なものは、人間としては概ね同じものをキャッチするが、個々人としては同じではない。そもそも受信できるものが細部においては異なる。
たとえば視覚情報は人間の眼にある細胞によって光の波長や強度を捉え、それが電気信号などとなって脳に伝わる。この時、網膜細胞の数や強さによって、受信できる光の情報が異なってしまう。人間と犬で捉えられる光の情報が異なるように、人間と人間でも、個々人で比較すると違うのだ。そしてその受信できた光の波長や強度が電気信号などに変換されて脳に伝わる。
では、脳でその電気信号を受信したら、個々人で処理は同じなのだろうか?
私は脳科学の専門家ではないが、恐らく違うだろう。脳のどの部分で信号を捉えるのか、その信号をどのように処理するのか、など、個々人では異なる。もしかすると、個々人の過去の経験上でそれぞれが形成したフィルターのようなもので洗練されているのかもしれない。そうやって大きく加工された情報を基にして、解釈する。その解釈も個々人によって異なるのだろう。
つまり、同じモノを観ている複数の人間は、そもそも解釈するための前提となる感覚機能で受け取れる情報も、それを認知するために整えられた情報も異なっているのだ。その認知できている情報の違いは微妙なのかもしれないが、多くの場合、人間はそのような違いがあることを考慮せずに「同じモノを観ているから同じ前提だ」と固定観念で協働しているのではないだろうか。
あなたの目の前にある色々なものを、左目を瞑り右目だけで見て、そして右目を瞑り左目だけで観る。それを1 秒程度で切り替えながら違いがあるか確認してみてほしい。筆者の場合、色が微妙に違う。左目は赤や黄色寄り、右目は青寄りだ。人間という一人の生き物の中は、そのような違い含めて色々な多くの情報を受け取って、それを何らかのフィルターなどを含めて処理して、簡単なものに置き換えて認識している。
人間という一人の生き物が集まったチームでは、たとえ同じ情報を受け取っているにも関わらず個々人の違いがあることを十分に理解しないまま、そしてさらに言語情報という「多くをそぎ落とした情報」で主たるコミュニケーションをしているにも関わらず「自分たちは理解している」と錯覚して協働している、そんな協働の実態がとても多いのではないだろうか。
人間が体験から得る身体知という学びは、そのすべてを文字情報には置き換えられないのだ。他者と理解しあうための道具として文字情報は効果的だが、それは暗黙知の一部しか伝えられていないということを前提とした方が良いと考える。その考えから、筆者は、サイエンス・ロジックも大切だが、ロジックで表現できないアートも大切にしている。そのアートの領域が、共感であり共鳴には重要だと考えている。そして、筆者自身がこの共鳴レベルの協働ができるチームを実際に見てきたからこそ、この共鳴レベルの協働ができるチームをこれから先の未来にもつくるために、これからも支援をする。そして、互いに理解し、共感し、信頼し合えていて、リーダーシップによって活性化された共鳴レベルの協働ができるチームをもっと増やすことが、日本という国が作り上げてきた文化の中でつくられた人のもっている良さと強さを活かした、グローバルでの戦い方ではないだろうか。